amsterdam
【DATA】
[広さ] ★★★
[物価] ★★★★
80%東京
[人の
よさ]
★★★★
[治安] ★★★★
ふつう。
[移動容易度] ★★★★
[総合おもしろさ@せつ]
★★★
[総合おもしろさ@さな]
★★★★
2002 October11-15 4nights

オランダの首都、アムステルダム。小さい首都ですが、旧市街にはり巡らされた運河、はね橋やオランダ独特の縦長の家々。歴史的な魅力もたっぷりの美しい街です。
また、たくさんのギャラリーがあるので、絵を見て回るには最高です。コーヒーも紅茶も、お菓子もおいしく、ぶらぶらして飽きない街です。


■曇り空のアムステルダム
6年前に来た時よりもアムステルダムは健康的に思えた。昔は飾り窓やコーヒーショップがどよーんとした退廃的なムードをかもし出していたように思う。今回はそれほどには感じなかった。季節のせいもあると思うけれども、牧歌的な、明るい感じがした。毎日曇っていたにもかかわらず。

アムステルダムの町は小さい。パリやロンドンとくらべるべくもないくらい小さい首都だ。そんな小さな町に偉大な三人の画家の名作がいくつもある。レンブラント、フェルメール、そしてゴッホ。 この町にはゴッホの美術館に行くために来た。それからフェルメールの作品を見るために来た。

【この町のホテル】
Hotel NOVOTEL(★★★★) 80E(9600円 )
朝食/なし トイレバスin room きれい 冷暖房/あり 接客/よい 立地/町外れ。清潔さ/きれい
旧市街のホステルは尋常じゃない値段!「えーこれで120Eかよ」というようなのばかり。仕方なく駅のホテルインフォですすめられた新市街にあるチェーンホテル、ノボテルにとまった。しかーし、さすが4つ★、大変快適!窓からの眺めもきれいで、これで80Eは安いかも。ひさびさにホテルらしいホテルに泊まった。
いやあ、きちんとしたホテルっていいなあ。やっぱり。「シャワーのお湯の量が少ない」のを我慢しなくていいし、コーヒーセットもあるし冷蔵庫もあるし。ベットきれいで広いし。



■パリ>ブッリュッセル>アムスを結ぶ新型TGV「タリス」。かっこいーい!


■オランダっぽい町並み。運河とトラムと縦長の家々

■ようやく使用できたマフラー。サナイチのはハノイで、ぼくのはネパールでゲット。

■ケーキとかかしがうまい。■パチンコやのようなインターネットカフェ

■ゴッホのこと
ゴッホは生きている間に一枚も絵が売れず、悪く言えば、弟に食べさせてもらっていた。ゴッホは死ぬまでのあいだ、ずっとその弟と手紙のやり取りをしていた。いろんなことを相談したり、「ちょっとおかしいんじゃないか」と思うような記述もある。また晩年には耳を切ったりして精神的におかしくなったと一般的に言われている画家だ。 よく「炎の画家」と言われる由縁は彼のそういう面にある。
今回、パリのオルセー美術館と、ここアムステルダムで何枚もゴッホの絵を見て、彼は「純粋さといやらしさをあわせ持った人だ」と思った。
6年前見た時は、ゴッホの純粋さにばかり興味があって、「悲しい画家、非運の画家」というフィルタをかけてみていたように思う。それはそれで間違いではないとは思うのだけど。

ゴッホは「センチメンタルを武器にしていた」今回はそんなふうな気がした。
うまく説明できないのだけれど、どちらかと言うと「純粋さ」より、そういう「いやらしさ」を絵からすごく感じた。
生前ゴッホの絵は一枚も売れていない。だから、彼の絵は極めて個人的な作品制作であって、彼が、だれかにこびへつらう必要などそれ程無かったはずなのだけど。
「誰かのために作ること」ではなく、「自分のためだけに作ること」という意味合いが強かったはずのゴッホなのに、打算なんか無くていいはずなのに、それでも打算が見える。
やっぱり人は「他人とのバランス」をみながら生きてるのだなあと思った。案外、「人間的」と言うのはそういう「いやらしさ」的なものなのかも知れない。

例えば、二歳の子供が描いたらくがき。これには打算なんかない。だからその純粋さが時として見る人をはっとさせることがある。 けれどもその絵に強さは無い。ここがゴッホの絵との決定的な違いだと思う。
いやらしさは強さだ。
純粋さを保ちながら人間的ないやらしさをも表現できたところがゴッホの絵のすごさであり強さじゃないかなと改めて思った。
僕がそういう「いやらしい」ことを考えてしまうようなオトナになったからかもしれないけれど、だから余計にそういうところに人間的な魅力を感じたのだと思う。



■オランダを代表する画家、レンブラントの作品。 ■オランダは自転車王国。自転車専用の信号、レーンもある。

■レンブラントやフェルメールがあるミュージアム。■レストランにもカフェにも必ず自慢のスープががある。しかも安くてうまい。




■フェルメール
フェルメールも、これまた生前は「うまくやれなかった」画家である。出生などもよくわかっていない画家だ。現在、公にフェルメールの作品だと認められている絵は世界中に30枚程しかない。彼の絵は、よく、「静けさと、描写のち密さと、劇的な光の配置」で語られることがおおい。そのぐらいしか文章では表現できないと思う。実際、フェルメールの絵は、おしなべて小さく、スピード感もダイナミックさもない。ルーブル美術館やメトロポリタン美術館の彼の絵の前はいつもガラガラ。だれも知らないで通り過ぎていくような感じである。
でも、ひとたび見ると、目を奪われる。
僕は、フェルメ−ルの作品が4点もアムスにあることを知らなかった。けれども「あれ?」と、一発で目を奪われる。
その部屋には十枚程の絵が架けられていた。4枚はフェルメール、のこりは別の作家。フェルメールだけまとめて並べてあるわけでもない。どこが違うのか。なぜそうとわかったのか。
写真的なのだ。
ここで僕が感じた「写真的」と言うのは、肖像写真のように「そっくりに対象を写した」ということではなくて、「時間の切り取り方」である。 一瞬のさり気ない仕種や瞬間を、非常に清潔に、抜群の構図で絵にしている。「振り返った瞬間の半開きの口の女性。」ごく普通のありふれた時間を詩的に切り取っている感じがする。そういうところがとても素敵なのだと思う。 フェルメ−ルの時代、当然写真の技術なんかない。写真を絵に描いて写したわけではないのに、実に劇的に詩的に、時間と空間を切り取っている。写真的なのだ。
そしてち密である。
この「時間を切り取っている」感じは現代の写真表現に通じるものがあると思う。 フェルメールの作品のもう一つの強さは画面に定着させるための執着心だと思う。
「瞬間を切り取ること」売りにした最近の写真作品と比較すると、その違いがよくわかる。「瞬間を切り取る」ためにはブレててもかまわないしブレがいけないわけではない。逆にシャッター速度をうんとはやくして動きが氷のように固まったようなものでもかまわない。どちらもたしかに瞬間は切り取られている。でもそれだけではおざなりなのだ。
「定着にかける執着心がない」と感じるものがおおい。構図や色の配置やいろんな理由はあるのだけど、単純にいうと工夫が足りない。
ここで言う「定着にかける執着心」は細かく描くことではない。(実際「レースの一部始終を写したような絵」を描く気狂い画家がたくさんいる。)ここで言う「執着心」は、「ころあい」「あんばい」に対する執着だ。非常に曖昧になりがちな感覚的なこと(数値化や文章化しにくいこと)に、フェルメールはたくさんの神経を使っているように思う。
フェルメールの絵は、構図、書き込み度合い、色、すべてが丁寧に抜群のタイミングで定着を終えているように思う。それが強さになっているのだと思う。だからひとたび見ると目を奪われるのだ。



■夜はバーはどこもおいしくて安い。近隣はベルギー、ドイツ、イングランドなどビール自慢の国ばかり。当然うまい。

【はみだし】上の写真は、ギャラリーのスタッフに連れてってもらったバーでの様子。全部おごってもらった! 右上写真の右がスタッフ、まん中が作家。彼の絵は非常に引き付けられる素場らしい作品だった。


パリ ロッテルダム



Thanx for all of cheers and all of kindness. We are realy happy man.

2002 Hayato Setsu and Sanaichi Tashiro